先日、こちらの記事 を読んで、「そうそう、それ。すごいわかる」と言う、誰もいない部屋で一人納得してしまう、ということがありました。
「それまで、相手に好かれたい、嫌われたくないという想いが強すぎて、コミュニケーションを取ることを放棄していた。コミュニケーションに失敗し、そこで人間関係を学び、成長する努力を怠っていた。それを相手に「人見知りで」とさも被害者のように言うのは、「自分はコミュニケーションを取る努力をしない人間なので、そちらで気を使ってください」と恐ろしく恥ずかしい宣言をしていることと同じだと思った。
私にも、自分はコミュ障だと言うことにして殻に閉じこもっていた時期もありました。俗物ですね。自分と価値観が相容れないことを周りのせいにして、嘆いていた小さなおじさんです。
でもある日、ふとしたことをきっかけに外に自分から出ていくようになりました。世の中には確かに悪い大人もいるけれど、ほとんどの人は善意で動いていて、困っていたら助けてくれるんですよね。
自分の価値観を発信していくと、離れていく人もいるけど、共感してくれる人もいるんですよね。
内向的であることをコミュ障であることは同義ではない。そう気づいたときにだいぶ心が軽くなった。軽くなったと言うより、「コミュニケーションは頑張らない」と言う免罪符を、外さざるを得なくなった。
そうして今は、不思議なことに、新しい人との交流を純粋に楽しみ、旧友と久々に連絡を取り合うことに興奮している自分がいたんです。人は変わるんですね。
少し話がそれましたが、この記事を読んでいたら、ふと他の星野源さんの本を読みたくなった。彼の音楽はとても好きで、よく聴いている。「喜劇」、良いですよね。
そこで、たまたま家にあった星野源さんの 『そして生活はつづく』 を読んだんですね。文庫版です。
文庫版のあとがきに、とっても良いことが書いてあったんです。
「なにげない日常の中に素晴らしいものがある」とドヤ顔でそんなことを言う人は苦手です。「なにげない日常」の中には「なにげない日常」しかない。素晴らしいものなんてない。
悲観論で始まったかのようなこの文章は、こう続きます。
その中から素晴らしさ、面白さを見いだすには、努力と根性が入ります。黙ってても日常は面白くなってはくれない。見つめ直し、向き合って、物事を拡大し新しい解釈を加えて日常を改めて制作していかなきゃならない。毎日を面白くするのは自分自身だし、それをやるには必死にならなきゃ何の意味もない。
あぁ、そういうことだよね、とまた共感してしまいました。
ただ単調につづく毎日と生活。そこに意味を見出すかどうか、そして一見つまらない事物を楽しめるかどうか。それって、自然に身につく本能ではないんですよね。
人と出会い、離れ、新しい知識を得て、嫌な思い出を忘れて、前に進んで、時には下がって、そんな日々の繰り返しですけれど、「あー楽しかったなぁ」「あーなんて素晴らしい一日だったんだ」っていう風に思いながら布団に入れるのって、自分の心地よいコンフォートゾーンを頑張って抜け出した時なんです。
誰かが言っていました。「人間は、どれだけ嫌な会話を他人としたかどうかで成長する」。誰かは忘れました。
海外に来た頃は、カフェでコーヒーを頼むのさえ嫌だったなぁ、と思いつつ、今ではそこで生まれるふとした雑談を心待ちにしているような自分がいる。それは、英語を諦めずに海外の地で生き続けた努力の証なのかなぁと、ちょっと自分が誇らしくなったり。と言っても、単なるコーヒー頼むかどうかっていう話なんですけどね。はい、俗物です。
「社会に貢献するソフトウェアを作りたい」という大言壮語を叩きつつ、ブリティッシュ訛りがよくわからない大工のおじさんと話すのにビクビクしてたりする、でもそのおじさんがめちゃくちゃ良い人だってわかって今日も楽しくなる。そんな毎日も、結構好きです。
なにげない日常、一緒に楽しく面白くしていきたい。そんなところに共感できる人とつながっていきたいですね。