子どもの自己肯定感は、親の期待ではない

つい先週、子どもと公園で遊んでいて、彼女の自己肯定感が高まる瞬間に出会うことができた。Monkey Bar、日本で言うところの雲梯(うんてい)をここ数週間練習していた子ども。その練習に付き合うために、夕飯後に毎日のように公園に行った。

最初は全然できなくて、足を抱えてもらいながら2回、3回運ぶ程度。落下が怖くて泣き叫び、すぐに親の助けを呼び、調子の悪い日には一度トライしては辞める。それでも、長い目線で見ると決して諦めなかった。

できるようになる瞬間とは面白いもので、ある日突然思い立ったかのように Monkey Bar に再チャレンジすると、それまでは半分も自力で行けなかったのに、いきなり最後まで到達することができた。しばらく練習をして筋肉を強化していたので、到達することができる閾値を超えたのだろう。

その時の「あ、私できた!」という笑顔。最高だった。その瞬間に立ち会える親でよかったと思うし、その日に一緒に公園に行ってよかったと思った。"You did it! You should be proud of yourself!" と声をかけてあげた。そして、誇らしげに「I am!」という元気な答えが返ってきた。

興奮に鼻を少し膨らませ、豆ができそうな掌を握りしめながら、何度もその達成感を味わっていた。その日は帰るまで何度も挑戦した。途中で力が尽きて降りることもあったけど、そんな "失敗" は当たり前のように受容して、達成した時の感動を味わうべく、親の姿を忘れて何度もチャレンジして行った。

その時子供の頭の中には、「親にカッコ良いところを見せよう」とか「親に褒めてもらいたい」とか「ご褒美に帰りにお菓子を買ってもらいたい」という気持ちは全くなかった。他人からの承認、努力に対する褒賞、物理的欲求を満たす外部からの刺激。そういった感情は一切無かった。自己に内在する、むくむくと湧き上がるような内発的動機づけに駆動されて、何度も手を運び、Monkey Bar を右に左にと揺れていく我が子。

そこに、自己肯定感の萌芽を感じた。

期待していなかったといえば嘘になる。「できる」か「できない」かでいうと、やっぱりできるようになってほしいし、逞しく躍動する我が子の姿を親として見るのは嬉しい。それでも、その自己肯定感の達成の瞬間に、「親の目線」というのが無かった(ように見えた)のは、子どもにとっての成功体験であるだけではなく、親としての成功体験でもあった。

先日、五条カンパニーの Taejun さんの記事を読んでいて、自己肯定感の話に言及されていたことに気づいた。

人が生きていくのに一番大切なものの一つは自己肯定感で、それは誰かが自分を大切にしてくれていると実感することから生まれる。そうしたら、自分は社会に生きている意味があると感じることができる。そう感じられるから努力ができるし、人と健全な関係を長期的に築くことができる。 ... 親と子どもが一緒に暮らしている家庭において、その自己肯定感の源泉は、子どもが「親が自分を大切にしている」と感じるかどうかに尽きる。なお、これは、親がどう思っているかではなく、子どもがどう感じるかのみによって決まる

親が想定する一方的な"愛情"や、過保護、予防的注意、失敗からの学びを阻害する”神の手”は、その子どもの自発的感情を阻害してしまう、というのが自分が強く信じ続けているところであり、つまりチープな言葉で言うと「親の期待で子供を縛りつけたくない」となる。

自己肯定感の源泉という泉は、形作る手伝いはできるかもしれないけれど、そこに水を注ぎ続けることができるのは、本人しかいない。

子どもが成長し、自立し、親元を離れていくまで、あとどれだけ今回のような瞬間を、共にできるだろうか。何物にも変え難いその瞬間を、これからも探していきたいと思う。

2023-07-22