五分間の静寂

これは、瞑想アプリを辞めたら、瞑想が初めて気楽にできるようになった話。もしくは、間違った動機づけと歪曲した消費主義の話。

これはもう十年以上も前のことになる。当時大学生だった私は、ソフトウェアエンジニアになることを目指して片っ端から手に入る技術書を探していた。そして、ソフトウェアエンジニアのロールモデルを探すべく、ネットに出てくる情報はなんでも漁っていた。当時の私にとって、西海岸シリコンバレーのソフトウェアエンジニアのイメージというのが、ギークでナード、だけどコードを書くと天才的で、普段は卓球をしている、という某テック企業によって作られた映画のようなイメージであった。そこで働く人との直接の接点を持たなかった私は、メディアの作るイメージで頭を満たすしかなかった。

その文脈で情報を漁っていた時だと思う。どうやら西海岸では瞑想がブームらしい、ということを知った。ストレス社会の中で、自分を落ち着けるための東洋出身の謎めいた自己との対話ツール、という文脈で、会社のトレーニングやセルフケアの一環で徐々に人気を博していたようだ。ヨガやフルマラソンといった健康ブームよろしく、メンタルを落ち着けるためのツールとして、瞑想が流行っていた。

私が瞑想を散発的に取り入れるようになったのは、それからだ。瞑想に関する本も読んだし、実践もした。そして習慣づけを手助けしてくれるアプリとして導入したのが、Headspace というアプリだった。当時は Lifetime Subscription という一括払いで一生使える購読プランというのを提供していて、デザインも西海岸チックでカッコよく、すぐにのめり込んだ。

毎日通知を送ってくるので、忘れることもない。瞑想を続けるとバッジももらえて、自己肯定感に包まれる。何をいっているかわからないけど英語でのナレーションもあって、英語スキルが上達しているような気になる。何より、自己と対話しているような気持ちになる。何か謎の力によって欲求を突き動かされているような違和感もあるが、アプリを使っているのが楽しいし、どこか西海岸のソフトウェアエンジニアになった気分にもなる。

そして、数ヶ月が経った。いつの間にか瞑想の習慣は消え、Headspace のアプリは iPhone から消えていた。それから、瞑想を思い出すことはあっても、習慣になることはなかった。

さて。それから数年後、久々に Headspace に出会う。加入している医療保険のサブコンテンツとして、無料で年間の Headspace サブスクに加入できるということだ(正確には医療保険に加入費を払っているので、無料ではないのだが)。懐かしの Headspace。これは入らざるを得ない。医療保険のポイントシステムとも連携しているので、毎日瞑想をして Apple Watch のようなアクティビティトラッカーで記録すると、ポイントも貯まっていく。一石二鳥ではないか。

そして、Headspace を使い始めて数日、すぐに違和感に気づいた。そして、今回はその違和感の正体を言語化できた。十数年で多少は賢くなったのだろうか。

そもそも、瞑想ってなんなのだろうか。それを通して、私は何を達成したかったのだろうか。自己との対話、というのは言うに易しで、何を対話し、どこに向かっていきたかったのだろうか。その思考を深く掘り下げていくことが目的にもなりうる。また、毎朝の瞑想を通じて自分の身体の健康状況を具に観測し、自分が何を思ったか、どうして思ったのか、客観的に振り返るきっかけにもなる。他人への感謝を思い出し、幸せな気持ちで胸を満たすこともできる。

しかし、Headspace のような瞑想アプリやそれを活用しようとするマーケティングは、そんな心の平穏には興味がない。いかにユーザーを増やし、購読者を増やし、資金を潤わせるか、ということが至上命題だ。それ自体は悪くない、なんたって資本主義なセカイに生きているのだから。そのツールとして瞑想を使っているだけなのだから。そのために、通知をユーザーに毎日送ってアプリの継続利用率を増やし、他のポイントシステムと連携してファンユーザーを増やす。マーケティングの典型的な流れだ。

そう、瞑想アプリの至上命題は、ユーザーがアプリを使ってくれることであって、瞑想を習慣化することではない。習慣づいたユーザーがアプリからいずれ離れる、いわゆる親離れのような状態を目指しているわけではない。バッジやゲーミフィケーションでユーザーを魅了させ、スクリーン滞在時間を伸ばしていく。それが投資家に評価され、資金を巻き込み、従業員や株主に還元させる。

その大きなダイナミズムに取り込まれたに過ぎなかったのだ。それは、ソフトウェア産業に長く在籍したから、痛いほどわかる。

毎朝の五分間の静寂を取り戻すためには、瞑想アプリは、少なくとも私の場合は不要だった。むしろそれは、別の欲求をもたげさせ、本来不要であった情動で突き動かそうとする、余分なものであった。そんな私に必要だったのは、数ポンドで購入した、五分間の砂時計だった。

朝起きて、まずはその砂時計をひっくり返す。その日の予定やその日の気分、起きた時間や天候などを観察しながら、自分の気持ちを聴き、抱える弱さと向き合い、昂る高揚感を感じ、ただ静かに呼吸をする。呼吸をしながら、体の中から余分な空気が抜けていくのを感じる。科学的根拠を求めずとも、その五分間に満足している自分がいる。

これでよかったんだ、とようやく気づく。本当に欲しかったのは、朝の静寂な五分間、そのたったの五分間だった。瞑想アプリで配られるバッジやスタンプでもなく、ポイントでもなく、西海岸のソフトウェア風情による自己満足でもなく、他の人と同じアプリを使っている集合主義でもない。ただの、シンプルな、何もない五分間の静寂。そしてそれに必要だったのは、余分なものが一切取り払われた、昔からある、ただの砂時計。

人生は、もっとシンプルで、優しくできる。それが、最近考えていること。

2024-05-07