ドイツに住む大学時代からの友人がいます。僕にとって大事な友人の一人です。ドイツで哲学を探究している、生粋の研究者。
そんな彼から、嬉しい知らせがありました。子どもが来年産まれるらしいです。本当にめでたい。自分ごとのように喜んでしまいました。
彼の場合は国際結婚で、ドイツ人の親戚に囲まれながら、ドイツ語で論文を読み、ドイツ語で生活し、ドイツ語で生き抜いていくために、今必死にドイツ語の勉強をしている。生き抜くために、必死に汗を流している。きっと孤独を感じたことも多かっただろう。職を得るのだって人脈も実績もないゼロからのスタート。本当に、頑張っている。
そんな中での嬉しい知らせ。父親になる実感は、半分湧いたような、湧かないような、そんな感じらしい。そういえば、その時期の僕もそうだったな。父親になるって、どんな感じなんだろうと、道ゆく他人の子を眺めながら、物思いに耽っていたっけ。
父親になると、世界観というのは変わる。人生の優先順位も変わる。一人の命を預かっているわけなので、その緊張感と言ったら「手に汗握る」なんてものじゃない。
だけど、父親になったからと言って、自然と偉くなるわけではない。勝手に強くなるわけではない。知らぬ間に父親に慣れているわけではない。
「子どもができました」という報告と、「私はこのこの父親です」という言葉は、似て非なるものなのだ。そこには大きな隔たりがある。然るべき行為を行えば、女性の身体的努力を通じて、子どもができる。ただし、だからと言って急にその日に父親になるわけではない。
子が社会に出んとその二つの足で立ち上がらんとするように、父親として我が子を育て上げるために同時並行で父親としての人格を見つけていくものだ。少なくとも、僕にとって「父親になる」とはそういうプロセスだった。今もそうだ。
子供を産むというのは不可逆的な行為だ。コピーペーストが蔓延り、ニューゲームがしやすい RPG のようなこのデジタル社会において、なお子供を産み育てるという行為はとことんアナログで、つくづく脆い。その脆さ、儚さの中にある、生命に対する尊厳、自己の未熟さの痛感といった、あらゆる刺激を経て父親という人格を少しずつ肉付けしていく。
だから、他人が父親になるプロセスを手伝ってあげることはできない。せいぜい高みの見物をするしかない。助言するくらいしかできない。そこにある身体的辛さと精神的困難を、経験していくしかない。でも、だからこそ子を育てるという行為は、尊いものだと思う。
自分は、我が子にとって父親になれているだろうか。かつて、自分がそうありたいと願った、そうあって欲しいと願った、決して掴むことのなかった父親というものに、なれているだろうか。