なにげない日常を、おもしろく

先日こちらの記事 を読んで、「そうそう、それ。すごいわかる」ということがありました。

「それまで、相手に好かれたい、嫌われたくないという想いが強すぎて、コミュニケーションを取ることを放棄していた。コミュニケーションに失敗し、そこで人間関係を学び、成長する努力を怠っていた。それを相手に「人見知りで」とさも被害者のように言うのは、「自分はコミュニケーションを取る努力をしない人間なので、そちらで気を使ってください」と恐ろしく恥ずかしい宣言をしていることと同じだと思った。  

私にも、自分はコミュ障だと言うことにして殻に閉じこもっていた時期もありました。自分と価値観が相容れないことを周りのせいにして、嘆いていました。でもある日、ふとしたことをきっかけに自分から外に出ていくようになりました。世の中には確かに悪い大人もいるけれど、困っていたら助けてくれる人も同じ位いる。自分の価値観を発信していくと、離れていく人もいるけど、共感してくれる人もいる。

内向的であることをコミュ障であることは同義ではない。そう気づいたときにだいぶ心が軽くなった。軽くなったと言うより、「コミュニケーションは頑張らない」と言う免罪符を、外さざるを得なくなった。そうして今は、不思議なことに、新しい人との交流を純粋に楽しみ、旧友と久々に連絡を取り合うことに興奮している自分がいたんです。人は変わるんですね。

少し話がそれましたが、この記事を読んでいたら、ふと他の星野源さんの本を読みたくなった。彼の音楽はとても好きで、よく聴いている。「喜劇」、良いですよね。 (Youtube)

そこで、たまたま家にあった星野源さんの 『そして生活はつづく』 を読んだんですね。文庫版のあとがきに、こんな一節が書いてありました。

「なにげない日常の中に素晴らしいものがある」とドヤ顔でそんなことを言う人は苦手です。「なにげない日常」の中には「なにげない日常」しかない。素晴らしいものなんてない。その中から素晴らしさ、面白さを見いだすには、努力と根性が入ります。黙ってても日常は面白くなってはくれない。見つめ直し、向き合って、物事を拡大し新しい解釈を加えて日常を改めて制作していかなきゃならない。毎日を面白くするのは自分自身だし、それをやるには必死にならなきゃ何の意味もない。

ただ単調につづく毎日と生活。そこに意味を見出すかどうか、一見つまらない事物を楽しめるかどうか。それって、自然に身につく本能ではないんですよね。人と出会い、離れ、新しい知識を得て、嫌な思い出を忘れて、前に進んで、また後進して。そんな日々の繰り返しですけれど、「あーなんて素晴らしい一日だったんだ」って思いながら布団に入れるのって、自分の心地よいコンフォートゾーンを頑張って抜け出した時なんです。

誰かが言っていました。人間は、どれだけ嫌な会話を他人としたかどうかで成長する。誰かは忘れました。海外に来た頃は、カフェでコーヒーを頼むのさえ苦手でした。今では、そこで生まれるふとした雑談を心待ちにしている。それは、英語を諦めずに海外の地で生き続けた努力の証なのかなと、ちょっと誇らしくなったり。単なるコーヒー頼むかどうかっていう話なんですけどね。

「社会に貢献するソフトウェアを作りたい」という大言壮語を叩きつつ、ブリティッシュ訛りがよくわからない大工のおじさんと話すのにビクビクしてたりする、でもそのおじさんがめちゃくちゃ良い人だってわかって今日も楽しくなる。そんな毎日も、結構好きです。

2022-11-08