Nice Person or Toxic Positivity

日本語で、いわゆる「いいやつ」みたいな人に出くわしたとき、"Nice guy" や ”Nice Person" と呼称することがある。

近所の仲の良い、お兄さんやお姉さん、というイメージだろうか。面倒見が良く、気が遣えて、かといってお世辞がましいようなところもない。困ったときに相談しようと思ったとき、まず頭の中に顔が浮かぶ人。前向きで、正直で、誠実なタイプ。そんな人が、会社の同僚や友人など身の回りにもいないだろうか。私には、いる。働いていて楽しいし、自分に適切なフィードバックを与えてくれて、また同じプロジェクトで働きたいと思うような人。

しかし、難しいのは、Nice guy に見えるのだが、でも実は無理にポジティブを装っているだけの場合だ。決してそのような人を揶揄したいわけではない。だが、良好なチームワークを築き上げるために、無理に取り繕ったポジティブさが蔓延ってはいないだろうか、という問題提起をしているのだと捉えてほしい。

本当は取り組むべき課題があるにも関わらず、前向きな言葉で言い換えて、問題に真正面から向き合っていない。物事を必要以上に良い方向に捉えすぎていて、返って状況を悪化させてしまう。部屋の中で誰もが薄々気づいているリスクがあるにも関わらず、それを露見させるようなコメントをするのがどうにも憚られるような状況。善意で動いているから、返って指摘しづらい状況。ポジティブなことは、否定がしづらいから。

実は、この現象には名前がある。Toxic positivity と言う。Excessive positivity と呼ばれることもある。美しい言葉で取り繕っていると、心地よい気分になる。そこには中毒性がある。もっと、もっとポジティブでいたい、ネガティブな表現には、蓋をしたい。

だが、しかし。私は、ネガティブな感情に向き合うことは決して悪いことではない、と思う。むしろ、ポジティブに対抗してネガティブと向き合うには、強さが必要だ。悲しいことを悲しいといい、辛いことを辛いと言う。苦しさを受け入れ、困難と向き合う。人が入りたくない暗い穴の中に自ら入っていき、毒の根源を洗い出す。それは、むしろ勇敢さである。

例えば、私は Emoji の乱用は、Toxic positivity に繋がるのではないか、と懸念している。違う文化圏の人に効果的に感情を伝えるためには、絵文字は至って有効な視覚効果なのだが、容量用法は守って使おうね、と言う問題意識である。本当は悲しいのに、笑顔の Emoji を使ったことはないだろうか。私には、ある。

ポジティブさの中毒性から抜け出すには、何が必要なのだろうか。失意のどん底で、自分の弱さと向き合う準備ができていない人もいるだろう。私には、わからない。わからないけれど、どこかで空耳で聞いたような平易なアドバイスを軽率にも口にしようとは思えない。問題提起で終わってしまっても良い。少なくとも私にできることは、私自身が、好きな文章を通して、自己の内面を向き合い、その姿をただひたすらに記録し、発信していくことしかできない。でも、十年後に振り返ったときに、あの時逃げずにネガティブな感情と向き合って良かったな、と自分に誇れるようではありたい。

2024-05-23