No to SNS

先日 Facebook と X のアカウントを削除した。Linkedin と Discord はまだ連絡用に残しているけれども、来年以降の運用は未定。Pinterest や Instagram のようなソーシャルメディアは元々持っていなかった。ソーシャルメディアというと微妙だが、Note.com のような擬似ソーシャルアカウントも、だいたい削除した。

なぜ消したのか。

SNS のビジネスモデルと未成年への影響

オーストラリアがソーシャルメディアの子どもへの利用禁止を検討しているというニュースが九月初頭に耳に入ってきた。その後の動向は追っていないが、この動きに関しては心から賛同している。

イギリスでも、Tik Tok 上での投稿が起因となったティーンエイジャーのデモや騒乱が時々話題になっている。ニュースを普段から見ない僕の耳にさえ入ってくる。住んでいる地元でも、数十人の若者が急に奇声を上げながら道路を突っ込んできて、我が子を匿うような場面に出会したこともある。話によると、SNS の投稿が引き金だったようだ。Roblox による小学生の中毒性も話題に上がる。SNS 上のいじめによる被害や事件は昔から後を経たない。

なぜそのような事態が起こってしまうのか。これは SNS を運営する会社のビジネスモデルが大きく関係していると考えている。Web 2.0 時代の広告で築き上げられた収益構造では、より多くの余暇時間をユーザーに求め、広告を視聴させ、アプリに長い時間滞在させることで、キャッシュフローを生み出す。運用会社の動機としては、SNS というコンテンツに中毒性を持たせ、毎日、いや毎時間でも触りたくなるような動機づけをさせ、ユーザーの「集中」という現代において貴重な資産を金銭に変換する。

したがって、若者に対する悪影響に関してのアプローチは、どうしても後手に回る。規制されたり、裁判で負けたり、政治圧力がかかったりしない限りは、資本主義に則った行動をし続ける。その大きなダイナミズムに SNS という枷によって捕らわれた若者たちの今と未来が、僕には蝕まれているように見える。倫理観に沿って考えてみた時に、応援したいビジネスだとはどうしても思えない。

そんな大きな流れに、ささやかな抵抗をしたい。要するに不買運動だ。SNS が金の成る木である限り、そんな一個人の投石は意味のない抵抗かもしれない。しかし、自分の意思を貫くという生き方に、意味がある。

何より、子どもに説明ができない。自分の子どもに使ってほしくないものなのに、親が、ただ成年だからという理由だけで使えるというのは、それもおかしい。子どもに対する説明責任は、自分の行動で示したい。

反論として、SNS はツールに過ぎないのだから、賢く使えば良い、という意見がある。そこには反対しない。実際、賢く使っている友人・知人もいる。自分だって、常に賢く使えているかというと自信はないが、有効活用を何度か経験している。しかし、この「SNS を使わない」というスタンスは、自分にとっての倫理観の発露であり、理想的な生き方の一歩である。したがって、他の人にも SNS を使わないように説得したい訳ではなく、自分が大事にしている価値観を体現したい、ということが大事なのである。

なので、この記事を読んでいる人の中で SNS をまだ積極的に使っている人が、嫌な気持ちになったり怒りを示したりする必要は無い。自分なりの距離感を探せば良いと思う。でも、もし今まで SNS の功罪のトレードオフについて考えたことがなかったのであれば、自分にとっての SNS の存在意義を考え直すきっかけになるのなら、それは嬉しい。

会いたい人とは、それでも会える

SNS のアカウントを削除して問題となるのは、友人の近況が入ってこないということになる。だけれども、その考えを覆すような旧友との Re-connect を最近経験して、正直そこまでそれは問題では無いと結論するに至った。

例えば大学時代の親友。当時の交流を通じて絆を深めていた仲があるので、間が数年空いても、再び出会えば当時のように一瞬で空気感を共有し、むしろ間があるからこそ話に花が咲き、全く色褪せない関係性を再現できたという場面に出くわした。SNS で定期的に繋がっていた訳でも無かったので、細かい近況は全く耳に入ってこなかったのだが、僕らの関係性には全く影響がなかった。

そして、本当に会いたい人には、それでも会える。SNS で定期的に繋がっていなくても、ネットワークを駆使し、調べられる情報は調べ尽くせば、だいたい会える。インターネットが無い時代は、出先で待ち伏せだってしていたと聞く。そこまでしてでも会いたい人と、会う。そんな情熱的な出会いが、薄くて浅い関係性によって希薄化してしまっているような気もする。

2024-10-04