アウトプットとジレンマ

海外在住で同じ業界にいる友人からは、アウトプットに積極的で、ブログやコミュニティ運営、Podcast 発信など精力的に活動して見えているようだ。他人からの印象は操作できないので、自分から見えている自分像とのギャップはさておき... 自分の知識を、言語化を通して深化させるという目的のために、アウトプットを意識的に取り入れているのは間違いない。

さて。アウトプットを続けていくと、読者やリスナーの中で、「"Ken Wagatsuma" とはこういう人だ」という像ができてくる。その中で、日本語で発信しているが故に、どうしても「イギリス在住」であったり「海外企業勤務」であったり、わかりやすいラベルで認識されるようになってくる。実際、その目的で講演会やら声もかかるようになってしまう。

その状況が非常にもどかしい。二つの点で、聞き手が期待するような話ができない、ということを知っているので、依頼を断るのにどこまで理由が伝わっているかと無駄に悩みながら、もどかしい気持ちになる。

第一の理由が、一個人の経験は一般化できないという点。再現性がないストーリーを、あたかも辿ることが可能なパターンとして認識されてしまうと、過度な期待を与えてしまうことになる。「あくまで個人の経験ですが」という枕詞が、謙遜の言葉として聞こえてしまう。就職の成功も海外移住のきっかけも、大いに環境要因が寄与するイベントである。再現性は、ほぼ無い。聞き手の環境を踏まえた上で、カスタマイズして受け取ってもらう必要がある。

第二の理由が、結局僕自身、イギリスだって、海外だって、インターナショナルな職場環境だって、ほとんど何もわかっていないという点。そこでの一片的な経験を偉そうに語るには、まだ時期が熟していないし、その時期がやってくるかでさえ疑問である。先日、別の記事で「イギリス生活も慣れてくると惰性で過ごすことができるようになってしまう」という趣旨のブログを書いたが、それと「国を理解する」ということは、全く別の話である。中身がブラックボックスでも、うまく付き合っていくことはできる。でも、ブラックボックスの中身を、あたかも知ったかぶりをして話すことほど、怖いことはない。

「いや、ああいったことくらいで一つの国をわかったように思うのは危険だよ ... 状況はどんどん変化していくし、データなんかは一年で古びてしまう。それに経験というやつは常に一面的だしね ... 知らなければ知らないでいいんだよね。自分が知らないということを知っているから、必要なら一から調べようとするだろう。でも、中途半端に知っていると、それに捉われてとんでもない結論を引き出しかねないんだな ... どんなにその国に永くいても、自分にはよくわからないと思っている人の方が、結局は誤らない」 『深夜特急』第16章 - 沢木耕太郎

2024-11-02