なぜ海外でソフトウェアエンジニアとして働くのか

英国でソフトウェアエンジニアとして働いていると、海外で働きたい人からのキャリア相談を受ける。人によって様々な目的や思いがある。そうして人と話すことで、内省的に自分自身を振り返ることができる。

なぜ、私は海外で働いているのだろうか。日本じゃダメなのだろうか。

高い給料?

よく「海外のソフトウェアエンジニアの年収は二千万円だ」とか「三千万円だ」という議論に出会う。海外と日本を比較したいのだろうけど、単純に給与だけを比較しても何も生まれない。

まず、外貨で獲得した給与を日本円に換算しても、為替によって大きく額は変動する。明日は 1,500 万円かもしれないし、来月は 3,000 万円かもしれない。外貨で給与を貰う人は、為替によって得をしている時には日本円に換算したがるけど、損をしている場合には換算しない。今は円安なので、そういった話を耳にしやすいだけだろう。

そもそも給与は、業界全体のトレンドと、会社の収益構造と、個人のポジショニングによって給与レンジが決まる。したがって、年収 3,000 万円相当のソフトウェアエンジニアが、年収 1,000 万円相当のソフトウェアエンジニアより技術力が高いことにはならない。

年収 3,000 万円をもらっていても、生活費が高く、インフレも進む北米や欧州で住んでいる場合、日本で年収二千万円の収入で暮らすのとは訳が違う。

また、こういった高収入が騒がれるのは、大抵の場合上場しているビッグテックによる給与体系。場合にもよるが数十%は株(RSU)による給与だ。ベースの現金収入ではない。年収 2,000 万円でも、そのうち 500 万円(25%)は RSU でもらっている、と言う例も珍しくない。現金化するまで時間がかかるし、税金もかかるし、株価の推移によって期待する金額が入らない。RSU による収入を、キャッシュと同列で議題の俎上に乗せるのは違和感がある。

日本の危機感を煽ってお尻に火をつけるのは否定しないけれども、ぜひ他の尺度も見てほしい。

日本が嫌い?

決してそんなことはない。

日本には、好きなところも、嫌いなところもある。同様に、今住んでいるイギリスだって、好きなところだけではない。嫌いなところもたくさんある。

重要なのは、その国の"嫌いなところ"がどこまで受容可能(acceptable)かどうかである。国全体を嫌いかどうか、と言う話ではない。

確かに、日本のピアプレッシャーや年功序列、遅れているペーパーレスの導入や融通の効かない役所仕事など、嫌いなところもあることは否定しない。

しかし、そういった欠点も、日本にいる方々の努力によって日々改善されている。美しい自然、進んだ医療制度、文句無しの国民皆保険制度、おもてなしの文化、舌鼓を打つしかない美食など、むしろ好きなところだらけである。

そもそも日本が嫌いなら、こうやって日本語で発信しない。日本人であることを、捨てるだろう。

日本の中から海外にチャレンジする人が増えてほしい、自分の経験が誰かのきっかけとなってほしい、と言う思いがあるから日本語で発信しているのだ。本当に嫌いなら、無視をするだけだ。

子どもをバイリンガルにさせたい?

子どもに「良い」教育を受けさせたいから海外なんですか?と聞かれることもある。

「良い」教育って、なんなのだろうか。子どもの成長に伴って日々考えさせられている。答えなんて出ていない。

確かに、英語圏で育てれば子どもは自然とバイリンガルになるかもしれない。しかし、バイリンガルにさせることってそこまで重要なことなのだろうか?

複数の外国語を話せることなんかより、一つの言語に精通することで、物事を深く考えることができるようになり、哲学を理解し、建設的な議論ができ、他人の気持ちに寄り添えることの方がよっぽど大事なんじゃないだろうか。

バイリンガルにさせたければ、日本でもやりようはいくらでもある。インターナショナルスクールもある。日本の教育ビジネスだって、内容や教材の質は高い。理数教育など日本の方が平均として進んでいる面もある。北米や欧州に来たからって、自動的に"良い"教育を受けさせてあげられるなんてことは無い。

じゃあ何がしたくて海外にいるの?

そんなこんなで自問自答する中で、一つの答えが出たことがある。私にとっての海外にいる意味は、競争なんだと思う。

資本主義の権化と思われるかもしれない。「勝っている間はいいよね」と思うかもしれない。しかし、本質はそこではないと思っているし、そう思いたい。

競争の激しい社会に身を置くと、圧倒的に「負け」の数が増える。そもそも競争の機会が多いので、勝負する場面も多い。そして、市場がそもそも大きいので、より優秀な人と競争しないといけない。より成長しないといけない。

したがって、絶対的な「勝者」と絶対的な「敗者」なんていない。勝者であり続ける人はいないし、敗者であり続ける人もいない。誰もが、日々、勝者と言う役割と敗者という役割を交互に演じる中で、前進し、創造し、気づきを得ているのだと思う。

そんな中で感じる、成長している実感、満たされていく知的好奇心。そこに惹かれているのだと思う。

日本は、ソフトウェアエンジニアの市場が小さい。グローバル化を当初から見据えずに日本市場を対象としていることも多いので、日本語でソフトウェアを作り、日本語で売ろうとする。グローバルな市場から人を採用する土壌にあるとは言い難い。例外はあるが、メインストリームではない。

だからこそ、海外のソフトウェアエンジニア市場で働くことで、上昇志向を求められる。より技術力を高め、社会にとって真にインパクトのあるプロダクトを作るチャンスに恵まれる。

補足するが、決して自分が日本の市場でトップを取ったと思っているわけではない。むしろ、自分の技術力は、中の上にも過ぎないだろう。何も成してはいない。

ではなぜ、まずは小さい市場でトップになることを目指さないのか?その路線で努力している人もいるだろうに。

言語化が難しいが、より大きな競争市場に身を置く方が、自分の絶対的な成長速度が上がると信じているのかもしれない。センター試験で百点満点を取ることを目指すより、数学オリンピックで入賞したい、という感覚に近いのかもしれない。目標が高い方が、自分の成長曲線が上がる、ということだ。

だから、日本市場だと成長しない、と言っているわけでもない。弱音を吐きやすい自分にとって、競争原理を利用した方が効率が良い、と言っているに過ぎない。

どうせ戦うなら、クリリンではなくて覚醒状態の孫悟空と戦いたい(ごめん、クリリン。君も十分強いけど)。負けたとしても、スーパーサイヤ人の本気のパンチを受けた上で敗北を認めたい。

じゃあこのあと何がしたいの?

では、死ぬその瞬間まで競争していたいのか?競争だけが人生の目的なのか?

知的好奇心を満たし続けるということほど贅沢なことはない。金銭を理由に一度大学進学を断念しかけた自分は、学問や勉強に大して必要以上に妄想を抱いている。読書をして、思索に耽って、気の合う友人と議論しながら毎日を過ごす、それほど贅沢なことは無いだろう。

でも、それで人生を終わらせたく無いと思っている。社会への還元、価値の創出、人類の発展の寄与。そこにソフトウェアエンジニアとして関わることほど刺激的なこともない。

つい先日話題になっていた以下の記事で、そんな自分の心中をズバリ言い当てている箇所があったので、紹介したい。

引用:衰退が確定した国におけるプランB

人間の能力は、元々の地頭の良さだけでなく、どこに身を置くかで決まる側面が強い。日本の成長期に偉大な起業家がたくさん輩出されたのは偶然ではない。優れた人は、競争の激しい場所、成長が起きている場所から生まれる。残念ながら、今の日本はそういう場所ではない。絶望的な状態になれば、どんな組織であっても、年功序列や慣習などを無視して、有能な人をトップに据えるようになるだろう。最近日本でようやく株主のアクティビズムが成功しはじめたのは、このことと無縁ではないと思う。将来にはもっと同じことが増えるだろう。海外で腕を磨いておいて、いつか苦境にある故郷の組織から声がかかる人になっていてほしいなと思う。

きっと、これなんだと思う。

社会には、解決したい課題がたくさんある。助けたい人がいる。直したい制度がある。それについて考えれば考えるほど、自分自身の限界と未熟さを痛感している。それでもテクノロジーの可能性を信じ、好きでやっている業界に身を置いているからこそ、「成長」という二文字に囚われているのだと思う。

海外で暮らしていくのは、予想以上に不確実で、想像以上に大変だ。脆弱な社会システム人間の本質に、日々向き合うことになる。だからこそ社会に価値を還元できる人になりたいし、そんな気持ちを持つ人と出会いたいし、一緒に働きたいのだと思う。

同じような価値観の人ともっと出会えたらいいな、と思っている。

2022-07-13